shin-1さんの日記

○夕日を語る

 町内の小学生が7月28日から3日間の日程で、ふるさと体験活動「ふたみ合宿村」を開いています。双海町には小学校が3校ありますが、いずれも小規模校になっているため、この事業が3校が連合を組んで毎年やっています。子どもたちにとってふるさとについて学習したり、ふるさとのよさを感じてもらうふるさと教育はとても大切なことなのです。しかし最近になってこれらの事業すらやり始めた頃とは随分様子が変わってきているようです。例えば食の安全などを考え、昨夕の献立は町内の業者といいながら弁当だそうで、食べ盛りの子どもたちにとっては、むしろ節制を強いるような感じもしますが、まあそれはそれとして容認しなければなりません。

 それでも昨日の第1日目は真夏の暑さの中、霊峰牛の峰に登山したり、今日はシーサイド公園でカヌーを体験したり、最終日にはボランティア活動をしたりと様々な楽しいプログラムが組まれているようです。子どもたちにとってはこの合宿村や、通学合宿夕やけ村、少年少女おもしろ教室など、官民一体でふるさと教育が行われていて、いい傾向だと思っています。大切なことはそれぞれのふるさと教育がそれぞれの特徴を出し合い、それぞれに個性を発揮しないと、子どもにとって非日常であるはずのプログラムが日常になってしまうのです。子どもたちは日常だと感動が半減します。逆に非日常だとハラハラ・ドキドキ・ジーンが子どもたちに伝わるのです。

 昨夕は合宿村から夕日の話しを頼まれて出かけて行きました。この頃になると天気も安定し夕日を見ながら野外で話が出来るので、毎年のことながら忙しい外出先での仕事を少し早めに切り上げて6時過ぎに会場へ到着しました。講話開始までは約1時間あるので、翠小学校と由並小学校の校長先生を相手に控え室で教育談義をしました。双海町内の3小学校の校長先生は今年から全て女性の校長先生で気配りのできる人だし、何かとご縁の深い人たちなのですっかり門外になった私にでも心を開いて話しをしてもらうので助かります。

(地上を焼き尽くし輝いてしずむ一度目の夕日)

 さて外の西日が潮風ふれあいの館に差込み、夕日が私を呼んでいるようだと思い外に出て見ました。今日北陸金沢や神戸では集中豪雨で大変なようですが、天気の不安定さはここまでは及んでいないものの、西の空の様子がどうも怪しいのです。先生にお願いして5分余り早く開会してもらいました。西の空には黒い雲がかかって、「夏の夕やけ川向こう渡るな」の諺を思い出させました。それでも西の彼方に沈む夕日は最高のシチュエーションで、子どもたちには雲間に消えようとする夕日を少しの時間しっかりと対峙しながら見てもらいました。

 私の話は約1時間です。小学生といえども高学年なので昨日はは大人に話す内容を話させてもらいました。子どもたちは、かつて私がコンクリート電柱を貰ってきて造った電柱ベンチに腰をかけての聴講です。

(青島辺りにしずむ感傷的な二度目の夕日)

 昨日は私の予告どおり、雲間に消えた夕日が再び雲間から姿を見せ、感動的な天体ショーを見ることが出来ました。しかもその夕日は真赤で一日で夕日を二度体験できたのですから、これ以上のことはないのです。

 このような美しいい夕日を眺めて暮らせる幸せは、そうそうあるものではありませんが、この地に暮す人にとって夏の西日はどちらかと厄介者で、夏の暑さの張本人を葦簾でさえぎっているのです。まあもう直ぐお盆を迎え、土用波が押し寄せれば夏も終るので、むしろ夕日を美しさの対象物として見て欲しいと思うのです。

 帰り際翠小学校の和田校長先生が「ツボ」の話をしてくれました。ツボは健康のツボとか話のツボとかよく使われますが、まあ極意とでも訳しましょうか。私の話の全てを見透かされたような落ちに思わずドキリとしました。子どもたちが浅学非才な薄っぺらい私の話しを聞いて何を感じたかは分りませんが、私の話のツボは夕日を切り口に、「ふるさとに誇りを持って生きる」「少年よ大志を抱け」「夢は必ず実現する」だったのかも知れないと、木になるカバンを単車の後に積んで、ほのぼのとした気持ちで夕闇迫る家路を急ぎました。

  「コンクリの 電柱ベンチ 皆座り 夕日見ながら 夕日を話す」

  「一日に 二度も夕日を 見るなんて 今日はついてる 夕日に感謝」

  「この子らも やがてふるさと 後にする せめて夕日を 心に刻め」

  「ツボさえも 押さえきれない わが身にて ツボの話に 思わずドキリ」



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